歴史と目的
日本・EUジャーナリスト会議は、1987年、駐日EC委員会代表部と財団法人経済広報センターの共催で、富士山の麓の御殿場市にて第1回会議が開催されました(当時の名称は日本・ECジャーナリスト会議)。「日・EC関係:我々はこれからどこへ行くのか」と題された2日間の会議には、日本側から13人、欧州側から15人のジャーナリストが参加し、ウィリー・ドクレルクEC委員会委員や小島静馬政務次官等が講演を行いました。ドクレルク委員は、基調講演の中で、「ECはこの会議を通じ、国際経済において非常に重要な国である日本との対話を深めることを大いに期待しています」と述べました。
第1回日本・ECジャーナリスト会議は、ECと米国との間で持たれていた同様の会議を先例に開催の運びとなり、以降日欧のマスメディア代表による討議や自由な討論の場として、毎年開催されるようになりました。
会議は日本と欧州で交互に開かれることになっており、第2回会議は「ECと日本、新しい展開のとき」をテーマに、西ベルリンの「ベルリン日独センター」で開催されました。ドクレルク委員が再び基調講演を行い、日本からは倉成正・元外相が参加しました。
第3回ジャーナリスト会議は、1989年、再び富士山麓の箱根で開催され、EC委員会の二人の副委員長が出席しました。この会議は「日本とEC—変貌する世界の中で」をテーマとし、ベルリンの壁崩壊1カ月前にソ連と東欧で進行中であった大きな変化に焦点が当てられました。その年、ソ連の閣僚と会見した最初のEC委員会委員であったフランツ・アンドリーセン副委員長は、「EC統合とペレストロイカ、そして日本」と題する講演を行ないました。講演の中でアンドリーセン副委員長は、欧州の将来像に関し、次のように述べました。「ソ連ではペレストロイカが起き、ソ連の隣国や同盟国では、政治・経済改革が行なわれています。つまり平和と繁栄を自主的に選択するという考えに基づき、欧州全体が穏健なプロセスで新しい社会へ進化していく機会が創り出されているのです。」アンドリーセン副委員長は、第4回、第5回、第6回の会議においても、講演を行ない、またレオン・ブリタン副委員長は、第3回会議後さらに4回にわたって会議に出席しました。
第5回会議は、1991年、大阪市において、大阪ECウィークの開会に合わせて開催されました。中山太郎・元外相が開会を宣言し、その年オランダのハーグで調印された日・EC共同宣言について講演を行ないました。日・EC共同宣言の目的は、日欧双方が、体系だった制度的な対話を通して、より広範な関係を確立しようというものです。この宣言により、ジャーナリスト会議が日欧関係に果たす役割が、明確な形となったのです。その年の会議のテーマは、「グローバリゼーションとリージョナリゼーション—中心部と周辺地域の関係」。ウルグアイ・ラウンドが間近に迫っていたため、非常に時宜を得たテーマでありました。多くの欧州のジャーナリストが少なくともメディアの世界では、マーシャル・マクルーハンの「グローバル・ビレッジ」はすでに現実のものとなっていると論じました。
第6回の会議は、正確には最初で最後のEC・日本・米国三極ジャーナリスト会議として、1992年、ポルトガルのリスボンにおいて開催されました。欧州ではマルクス主義が終焉しており、フランツ・アンドリーセン副委員長は、基調講演で次のような見解を披露しました。「EC、米国、日本という、国際体制を形作る主要な三極の実例が、東欧の共産主義崩壊をもたらす大きな要因となりました。我々は、もはやイデオロギーによって真っ二つに分かれることのない世界に適合していくことを学ばなければなりません」。会議では、河野洋平自民党外交調査会長も講演を行ないました。河野氏は、ブリュッセルで開かれた第10回ジャーナリスト会議においても講演しました。
マーストリヒト(欧州連合=EU)条約が発効した1993年に開催された第7回会議では、新しい条約によってもたらされる欧州の変化が大きな話題となりました。会議はそれまでの成果に基づいてさらに発展を続け、海部俊樹(第8回会議)、羽田孜(第9回会議)の両元首相のような指導者の関心をも惹きました。1996年、ブリュッセルにおいて第10回の記念すべきジャーナリスト会議が開かれました。この会議には、ジャック・サンテール欧州委員会委員長が委員長として初めて出席し、「EUの新しい課題、EUと日本の共通の課題」と題する講演を行ないました。サンテール委員長は、講演の中で、次のように述べました。「日本・EUジャーナリスト会議は、質の高い相互関係を確立するために多大な貢献をしています。ビジネスマンやジャーナリストなど、異なった視点を持つ双方の人々の協力は、日本とEUが実質的な関係を築く上で大変重要なことです」。
阪神・淡路大震災の2年後の1997年、第11回会議が神戸で開催され、「神戸の復興」が主要テーマの一つとされました。第12回会議は、イタリアのフィレンツェにある欧州大学院で開催され、欧州委員会のレオン・ブリタン副委員長と拡大交渉対策室のニコラウス・ヴァン・デル・パス室長が講演を行ないました。そして第13回となった2000年の会議は、古都京都−再び関西でありますが−と日本のモダンな首都東京との2カ所を移動しての開催となりました。同会議ではパスカル・ラミー委員(通商政策担当)がブリュッセルとのビデオ会議という近代的な方法で参加しました。
2001年ダブリンで開催された第14回会議にはクリストファー・パッテン委員(対外関係担当)が従来の方法で参加しましたが、同会議のテーマはまさに21世紀にふさわしい情報社会に関してでした。参加者は欧州の電子商取引と情報技術の発展において先陣をきっているダブリンで、情報社会についての討議を繰り広げました。2004年と2005年にそれぞれ福岡市と名古屋市で開催された第17回・18回会議は、アジア欧州会議(ASEM)参加国のジャーナリストも含めた、大掛かりなものとなりました。また、福岡会議より交互開催方式を改め、日本での開催を基本としました。
2007年4月には、「移民・外国人受け入れ問題」をテーマとした第19回会議が箱根で開かれました。同会議では、原点に立ち戻り、参加は欧州および日本のジャーナリストに限ったものでした。
同会議は2008年1月、欧州委員会のヴラジミール・シュピドラ委員(雇用・社会問題・機会均等担当)出席の下、京都にて開催されました。テーマは日欧双方が今後の大きな課題と位置づける「高齢化社会」で、参加者は高齢化にマクロ経済への影響、年金制度改革、ワークライフ・バランスの確保といった切り口でこの問題について議論しました。
2009年4月、同会議は地域格差の拡大に対する懸念を背景に「地域政策」をテーマに、新潟市で開催されました。欧州委員会のダヌータ・ヒューブナー委員(地域政策担当)が基調講演を行い、分科会では地方分権、産業クラスター、文化と観光という3つの切り口からこの問題を討議しました。
ジャーナリスト会議は、日欧のジャーナリストと政界・産業界・学界の指導者たちが直接議論を交わす場を提供するだけでなく、日本とEUの相互理解を深め、関係を強化していく機会を提供する上でも、極めて優れた評価を得、現在に至っています。
(文中の肩書き、機関などの名称は当時のもの)
これまでの開催地
第 1回 (1987) 御殿場(日本) | 9月9日-10日 |
第 2回 (1988) ベルリン(ドイツ) | 9月7日-9日 |
第 3回 (1989) 箱根(日本) | 10月5日-7日 |
第 4回 (1990) ブライトン(英国) | 9月20日-22日 |
第 5回 (1991) 大阪(日本) | 11月26日-28日 |
第 6回 (1992) リスボン(ポルトガル) | 6月3日-5日 |
第 7回 (1993) 横浜(日本) | 11月14日-16日 |
第 8回 (1994) アジャン(フランス) | 10月14日-18日 |
第 9回 (1995) 札幌(日本) | 9月17日-19日 |
第10回 (1996) ブリュッセル(ベルギー) | 9月9日-11日 |
9月29日-10月1日 | |
| 第12回 (1998) フィレンツェ(イタリア) | 10月21日-23日 |
3月 8日-10日 | |
| 第14回 (2001)ダブリン(アイルランド) | 3月7日-9日 |
| 第15回 (2002)沖縄(日本) | 2月27日-3月1日 |
| 第16回 (2003)アテネ(ギリシャ) | 3月25日-28日 |
| 第17回 (2004)福岡(日本) | 4月6日-9日 |
第18回 (2005) 名古屋(日本) | 4月17日-20日 |
第19回 (2007) 箱根(日本) | 4月7日-8日 |
第20回 (2008) 京都(日本) | 1月19日-20日 |
第21回 (2009) 新潟(日本) | 4月4日-5日 |
以下の日本・EUジャーナリスト会議レポート(英文のみ)はPDFファイルにてご覧頂けます。
![]() | 第17回 日本・EUジャーナリスト会議 (日本・EU・アジアジャーナリスト議会) |
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